ライブという場

2001年12月14日
先日ライブにいってきた。最近の日記の話題はこればっかであるが、しばし今日まででこのネタは打ち止めにするのでよろしく。

自分は本当にライブという「場」が大好き。
自称ライブ狂とも言える。
それぐらい昔はひたすらにライブ会場に足を運んだ。最近はそれほどでもないが時間を無理やり作ってはいく。それほど大好きなものである。

Misia
TMN
電気グルーヴ
エレファントカシマシ
真心ブラザーズ(解散コンサート@日本武道館いけず、無念(涙))
浜崎あゆみ
Do as infinity
ミスチル

まあこんなところのアーティストのライブを少なくとも2、3回は見ています。幾度となくいっているがやっぱ「生」でみるものは違う。

当然CDとかと違いやっぱ生音はいい。
ライブをみにきているだぞという臨場感。
ライブにつきもののトラブル。
舞台をより効果的に照らす嗜好を凝らした照明。
耳をつんざくような音。
ライブに参加しているという一体感。
自分の心を揺るがしてくれるアーティストの声。
ライブが終わった後の心地よい疲労感。
ライブが終わった後の少しの寂寞。

少なくともこのようなものは絶対ライブでしか味わえないと思う。そこに苦労して、お金をかけてわざわざライブに「行く」意味がある。

音楽はきければいいという人が多い。
技術革新が非常にすすみ随分手軽に聞けるようになった。それによってむしろ、「音楽」という本来的な人の心を揺るがすものを消費社会の一部に取り込んでしまったのではないか。バブル期に起こった絵画の買占めに似ている。

そんな中でも「音楽」(そして絵画も)は消費社会というものに隷属するものではけっしてない。そんなことを再確認くれるのは絶対「生」でみることである。

音楽であればライブでみること。
絵画であれば美術館に絶対足を運ぶこと。
ドラマであれば必ず演劇をみること。

「生」でみれば今まで見ていたレプリカのうすぺらっさが非常にわかる。それだけ「生」のものが提供してくれるものは本当に多い。

だから自分はなにか足りないものをふと感じたときには「生」でいろいろと見に行くことにしている。それでいろんなものが得られる。自分の小ささにも遭遇できる。

なにもかもが「消費」される世の中に向かう中で、ふとさまざまなものを考えさせるきっかけになるのはやはり「ライブという場」である。

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かなり熱く書いてしまったなぁ。こんなはずじゃなかったがまあ、いっか、うん。

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